菫色の刻について

このカテゴリーでは、主に同性愛映画(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、異装愛者たちが描かれている、主役だったり脇役だったり、または仄めかす世内容、印象強く残るなど、まったく私的な見解です)を中心に好きな作品を綴っています。同じ人間、男性と男性、女性と女性の恋愛が特別だとは思わないのです。こういう気持ちはずっと漠然と幼少期から抱いていました。成長する中で苦悩する友人達とも出会え、彼らとは良き友人関係が続いています。愛するという権利は誰にもあり自由。誰もが人間として日々を生きている。現状の日本ではまだまだマイノリティな感があるのですが、実はとても古い歴史のある国。もうクローゼットを開け放ち、偏見や差別は時代遅れの時のよう。性描写よりも心の揺れや葛藤の描写、イマジネーションを刺激する美しい映像等を重視して観ますので、面白くない文章だと思いますが世界を共有できるお方がいて下さると幸いです。お気軽にコメントやTBにお越し下さい。どうぞ宜しくお願い致します。


追記
偏見とは複雑なものだと思う。「やおい」という言葉が出てきたり、その前から少女漫画の世界で少年愛が描かれたり、私の世代だと「アナザー・カントリー」や「モーリス」などが登場し、美しい綺麗な男性たちの恋の葛藤に涙したり。「腐女子」という言葉も。私はそれらの言葉は耳にしても自分でそうであると思ったことがない(そういう部分もあるのだろうけれど)。そして、同性愛者の人達の中にはそれらの作品を好む方も居られるし、逆にそれらに嫌悪感を持たれる方も。レズビアンの友人が海外に行ってしまった。その決意をするまでの苦悩を私は何も分かっていない。でも、彼女は語るまでに年月がかかったけれどお話してくれた。私が漠然と思うことは、「男性のようで女性のようで」「女性だけれど、男性みたい」「女性でもあり男性でもある」「男性でもあり女性でもある」...クリミナル・ワールドだといいなぁっと。実は同性愛者であるけれど敢えて異性と結婚し、さらに友情という形で愛を深めていく同性愛の形もあると思う。特に古き時代は。それも美しい精神愛だと思う。そういう禁欲的な精神美に崇高さをも感じる。自分で同性愛者だと自覚した時のためらいや苦悩の重さを感じる。”あなたに何が分かるのですか?”と言われるかもしれない。少女漫画の世界に影響されてきただけだと批難されるかも?でも、感じるのだから仕方がない。対意識は苦手。カムアウトする方々は勇気があると思う。それで済んだ訳ではない。そこからまた違う偏見が生まれるのだから。それも承知の上のことなのだから、さらにその精神力の逞しさに胸を打たれる。私は自分のことなど分からない。男性と思える存在は父だけな気がする...。おそらく人生の伴侶としての存在は人間として好きな人、性別を超えた特別な存在なのだと感じているところ。