『少年の瞳』 カール・シュルツ監督 (1984年) 


少年の瞳/CAREFUL, HE MIGHT HEAR YOU
1984年・オーストラリア映画
監督:カール・シュルツ 原作:サムナー・ロック・エリオット 脚本:マイケル・ジェンキンス 撮影:ジョン・シール 出演:ニコラス・グレッドヒル、ウェンディ・ヒューズ、ロビン・ネヴィン、ジョン・ハーグリーヴス、ジェラルディン・ターナー、イザベル・アンダーソン、ピーター・ホイットフォード

苦手な夏。今年は冷夏で思ったよりも体調を崩さずに8月を乗り切れたのに...。9月に入り只今不調なり。そんな時はやはり何かを綴っている方が楽になる。死ぬまでの果てしない旅は私の人生。人生の大半は苦しいものなのだと言い聞かせる。まだまだ青二才の私には平穏に過ごせる境地には到底及ばない。修行は続くよ、何処までも。それでも愉しいのだ。馬鹿みたいに毎日毎日泣いている。不思議なもので、毎日毎日笑ってもいる。素晴らしき哉、人生である!

『少年の瞳』というオーストラリア映画。好きな映画のことをほんの一部しかまだ綴れていないので先は長い。この映画の主人公の少年はとびっきりの美少年というタイプではないけれど、やはり、あの足とお声は愛おしいもの。ビルという名があるのに皆から「PS」と呼ばれている6歳の少年。その小さな少年の視線で映し出される。なので、大人たちを見上げる背丈の少年と上半身がすべて映らない大人たちの場面などもあり愉快。私は前世余程愛に飢えた子供時代を過ごしたのでは...と思えるくらいに、「孤児」「私生児」「戦争による悲劇」というような少年少女たちのお話に敏感。観ずにはおられないという感じ。

この『少年の瞳』の舞台は1930年代のオーストラリア。元々は英国の植民地であった国。英国好きなので好きな俳優方は英国にわんさか。オーストラリアにも優れた俳優方が多く好きなお方も多いのは、そんな歴史が関係しているのかもしれない。あまり国籍や人種で区別はしないので色々観る中で感じていることだけれど。

この映画は日本では劇場未公開。オーストラリアでは各賞を総なめにした作品だそうだ。この少年役のニコラス・グレッドヒルの出演作はこの映画しか知らない。大人たちの会話を耳にし瞳をうるうるさせる愛らしい少年。最後までお話の真相が細かく分からないのは、すべてこの少年の視線で描かれているからだろう。ミーハー故に、私はこの映画のもう一人の主役とも言える美しい叔母ヴァネッサ役のウェンディ・ヒューズが好き。他の作品でも素敵だけれど、この1930年代という時代設定で裕福な役柄。纏われる美麗なお衣装や濃い目のメイクのそのお姿は麗しい。時折、大好きなナスターシャ・キンスキーホープ・サンドヴァルを足して、メグ・ティリーの雰囲気も重ねたような...。最後は英国に戻る船が事故に遭い死んでしまうけれど、PS少年の父親と若き日になにやら関係があったということらしい。なので、他の姉妹たちのPSを見つめる姿とは異なる。今も愛している人(姉の夫なのでややこしい)の姿を小さな少年の中に見ている。主役はPS少年なのだけれど、私はこのヴァネッサという貴婦人の人生にも興味を抱きながら観ていた。

PSというあだ名は変だけれど、皆そう呼んでいる。叔母が確か4人いた。お産の後死んでしまった母親シンディの遺言の中に書かれていた言葉が由来。この子供は「自分の人生のPS(追伸)のようなもの」だというような...PSが可哀相に思えた。優しい伯母ライラがPSの後見人となり6年を過ごしていた。決して裕福な時代ではないオーストラリアの1930年代。伯母夫婦は質素な生活の中で我が子のように温かく育てて来た。PSも実の両親のように慕っている。そんな矢先に英国からもう一人の叔母ヴァネッサがやって来る。PSを引き取りたいと。6歳の少年はライラ夫妻とヴァネッサの家を往来することになる。まったく違う過ごし方。ヴァネッサはお金持ちなので綺麗なお洋服をPSに与え、乗馬やピアノ、ダンスと色々習わせる。名門の学校に入れられるけれど、そこで「私生児」だとからかわれたりもする。PSはライラの元に帰りたい。けれど、養育費はヴァネッサの方が楽にある。ライラの夫ジョージが失業してしまったことは大きかった。当時のオーストラリアの不況を垣間見ることができる。PSの父親ローガンが突然現れてはまた汽車に乗って行ってしまう。金鉱を手にして戻ってくるというような夢を抱いて。父ローガンは妻のお葬式にも姿を現さなかったという。なので、PS少年はまったく父親を知らない。突如目の前に父親を見た少年の気持ちはどんなだったろう!きっと、よく分からない、言葉にもできない感覚だっただろうから、深く描かれてはいないので、勝手に想像して泣いてしまった。

PS少年が”ぼくはビルだ”という場面は特に感動的だった。実の母親の死を知り、父とも再会(また別れ)、叔母の死を経て、この小さな少年はまた少し成長したのだろう。辛いことが多いけれど、彼等(子どもたち)の前途は光に満ち溢れているものなのだから。そうであらねばならないと想い続けている。

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