ロマン・ポランスキー監督が拘束された

映画「戦場のピアニスト」などで知られるロマン・ポランスキー監督が、約30年前に米ロサンゼルスで起こした少女淫行(いんこう)事件でスイス警察当局に拘束されたことが27日明らかになり、スイスの映画監督協会が「醜い司法の茶番であり、巨大な文化的醜聞」と激しく非難する声明を発表するなど、釈放を求める声が強まっている。監督はこれまで何度もスイスなどを訪れており、今回拘束されることはほとんど予想していなかったとみられる。監督が市民権を持つフランスの政府はミッテラン文化相が監督を擁護する声明を出したのに続き、スイスに外交ルートを通じて監督との接触や穏便な解決を求める協議を始めているもようだ。監督の弁護士は、身柄がスイスにあるうちに指名手配の解除を求めることで釈放を模索する考えとされ、スイス、米両国当局の対応が注目される。(産経ニュースより)

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/090928/tnr0909280902003-n1.htm

★このニュースは驚いた!1977年の事件。ポランスキー監督は罪を認めたものの国外に逃亡していた。しかし、フランスの住民権を得て既に30年。被害者である当時の女性は今はご結婚されお子様もおられるという。こうして、「忘れたいのにいつも付き纏う」この事件の被害者の女性は、ポランスキーを釈放してほしいと語っている。それでも、まだ追われる身なのだ。ポランスキーは複雑な屈折した人生を送ってこられた巨匠。1969年には「シャロン・テート殺人事件」があり、監督は被害者である。それも、悪魔のカルト集団によって妻とお腹の赤ちゃんを殺されているのだ。その教祖チャールズ・マンソンはまだ服役中だという。フランスではかなり釈放を求める声が高まっているようだけれど、逃亡を続けるのは良くないという意見もあるようだ。ポランスキー監督作品は日本版として公開あるいは発売された作品は網羅している。かなり好きなのだろうと自分でも想う。もう78歳だという。好きだからと云って犯した罪を償うことをしていないのは良くないとも想うけれど、波乱の人生とこれまでの名作たちの色々な場面が浮かぶ...そんな複雑な気分でこのニュースの経過を見守っているしかないけれど、釈放されることを願う。

『ベント 堕ちた饗宴』 ショーン・マサイアス監督 (1997年) 

cinema-chouchou2009-09-27


ベント 堕ちた饗宴/BENT
1997年・イギリス映画
監督:ショーン・マサイアス 原作戯曲・脚本:マーティン・シャーマン 撮影:ヨルゴス・アルヴァニティス 音楽:フィリップ・グラス 出演:クライヴ・オーウェン、ロテール・ブリュトー、ブライアン・ウェバー、ミック・ジャガーイアン・マッケラン、ニコライ・ワルドー、ジュード・ロウポール・ベタニー、ルパート・グレイヴス

【あらすじ】舞台は官能に満ちた饗宴が繰り広げられるベルリンのクラブ。そこで働くマックス(クライヴ・オーウェン)は、綺麗な金髪の青年ウルフ(ニコライ・ワルドー)と一晩過ごした翌朝、同棲相手のダンサーであるルディ(ブライアン・ウェバー)の嫉妬の視線にさらされる。それを親衛隊の激しい靴音とドアのノックが打ち破る。ウルフはナイフで刺殺されるが、マックスとルディは間一髪アパートを脱出する。2人はグレタ(ミック・ジャガー)に助けを求めるが、彼はジョージと名前を変え、ゲイの生活を清算していた。そしてヒトラーの命により同性愛者は殺されることを知らされる。2人は各地を転々と逃げ回る。マックスの叔父(サー・イアン・マッケラン)がアムステルダム行の切符とパスポートを1人分だけ用意してくれるが、マックスは2人でなければ駄目だとこれを断る。ある晩、森の中でゲシュタポに捕えられ収容所送りになる。インテリの象徴である眼鏡をかけていたルディは列車の中で拷問される。マックスは助けようとするが、ホルスト(ロテール・ブリュトー)という同乗者に止められ、現実ではないと自らに言い聞かすことでルディを見殺しにする。マックスは人間としての尊厳を捨て、生き延びるために取り引きしようと決意する。ゲシュタポに13歳のユダヤの少女(死体)と関係を持つ。ゲイでないことを証明しろと言われ、これに応じ、ピンクの三角(最下位の同性愛者であることを示す)ではなく、黄色のダビデの星を手に入れる。収容所に着いて、マックスが手にした仕事は石を運び、積み上げるとそれを元の場所に戻すという単純作業で、それもゲシュタポと取り引きしたものだった。さらにマックスはホルストを相棒に呼ぶ。2人は互いに見つめあうことも触れあうこともできないが、言葉だけで愛を交わしあう。季節が猛暑から雪の積もる酷寒へと移り変わり、ホルストは咳をするようになり、彼の体力も気力も衰えていった。ホルストのためにマックスは新任の将校に近づき薬を手にするが、翌朝そのことが発覚し、ホルストは銃殺される。マックスはホルストの遺体からピンクの三角の付いた囚人服を脱がせ、自らの意志でそれを着て電気の流れる有刺鉄線につかまるのであった。
マーティン・シャーマンの原作戯曲の舞台劇の初演は1979年。ブロードウェイでも上演され、リチャード・ギアがマックスを演じたものもあるそうだ。日本でも役所広司主演の舞台もあったという。この戯曲が映画化されたのは1997年。マックスを演じるのは今ではハリウッド映画でも大活躍のクライヴ・オーウェンで、彼の主役映画で一等好きな作品。ダンサーのブライアン・ウェバーが収容所送りの貨車内で拷問のうえ死んでしまう場面は辛かった。眼鏡はインテリの印だとゲシュタポは踏み壊す。その将校は眼鏡をかけていた。

この映画は歴史を伝えながら静かに訴えかける。静か故に切々と悪夢の歴史とその犠牲者たちの死を無駄にしてはならないのではと悲痛な想いを抱く。このような題材の映画がハッピーエンドなはずは無い。悲しくて泣いてしまうけれど美しい!ゲシュタポ内にもゲイの将校は存在したのではなかったか!マックスがゲシュタポと取引(生き延びるために)しゲイの印であるピンク・トライアングルではなく、ユダヤの黄色の星を胸につける。ホルスト(ロテール・ブリュトー)はゲイとして生き延びたいと願っている。彼の誠実さと勇気に感動する場面がいくつかある。中でも、終盤、射殺される前にマックスに背を向けて歩き出す中で、愛のメッセージである眉を掻く。それはマックスの心にしっかりと届いたのだと想う。無意味な作業、重労働を課され真夏も真冬も12時間。2時間に一度の休憩時も座ることは許されない。マックスとホルストは岩を運びながら会話を密かにする。見つめ合って話すことも、体を触れ合うことも許されない。すべて監視されている。二人は休憩時間にお互い横に並び言葉と想像で愛を交わす。こんな最悪の状況下でも愛は存在するのだ!そんな美しさに私は胸を打たれる。けれど、同時にやるせない想いも募りヘヴィでもある。

この美しくも重い映画を4回観た。観終えたあと、暫く何もできないのだけれど。理由はミーハー故のこと。序盤にミック・ジャガーが女装して歌う場面と僅かな台詞がある。ミックが好きなのでその場面は嬉しい。また、マックスの叔父役でイアン・マッケランも少し登場される。豪華な序盤である。エンドロールでもミックの歌が聴ける。そのキャストを眺めていると、ジュード・ロウポール・ベタニーの名があった。ほとんど、クライヴ・オーウェンとロテール・ブリュトーがメイン。私はジュード・ロウが好きなのにどこに出演されていたのか分からず。そこで、確認するために再見した。ほんの僅かながらあの少年のような輝く瞳は間違いなくジュード・ロウであった。ポール・ベタニーは何となく検討がついていた。将校の大尉役だった。あまり大写しのアップはなかった。そして、また後に、ルパート・グレイヴスも出演と知り再見...こんな理由で幾度もヘヴィな気分となりながらも、常に感動して涙に溢れる私はなんだろう...。英国は美少年・美青年の宝庫であるのは随分前から変わらないので嬉しい。

この映画はピンク・トライアングルというテーマが主。収容所内で作業着に付ける印のこと。政治犯は赤の三角、ユダヤは黄色の星、同性愛者はピンクの三角。この順序であるので、ピンク・トライアングルは最低ということなのだ。片っ端から相殺されてゆくので、ミック演じるグレタはジョージと名を変える。マックスの叔父は長年隠れゲイの生活を続けている。皆、生き延びるための手段。その選択を非難することはできない。ミックの歌う曲も好きだけれど、全編を流れるフィリップ・グラスの音楽がとても素晴らしい!映像と一体化して、優れた俳優の演技と共に芸術となる。そして、観る者はそれぞれの想いを抱き思考する。ゲイという言葉(劇中の字幕はホモとある)やそれらの人々に対して邪な偏見を持たれているお方はやはりまだまだ多い。なぜだろう...愛することは人間の権利である。美輪明宏さまのお歌にもあるように!意図して同性を愛するのではない。好きになった人が同性だったということ。どうして?と人は訊くけれど、当の本人たちはその答えを持っていないのではないだろうか。好きだからという理由に男女の境界が必要ではない。人が人を愛するのだから。そんな当たり前のことなのに。日本の同性愛の歴史はとても古くからあることなのに。日陰者の想いを抱きながらの日々なんて。何の罪でもないのに。犯罪でもないのに、最低のピンク・トライアングルを付けられ死へ追いやられた多くの犠牲者たち。ユダヤ人の虐殺のお話は学校でも習うけれど、こうした史実も伝えてゆくべきだとも想う。

『冬の旅 (さすらう女)』 アニエス・ヴァルダ監督 (1985年)

cinema-chouchou2009-09-19


冬の旅/SANS TOIT NI LOI
1985年・フランス映画
監督・脚本:アニエス・ヴァルダ 撮影:パトリック・ブロシェ 音楽:ジョアンナ・ブルゾヴィッチ 出演:サンドリーヌ・ボネール、マーシャ・メリル、ステファン・フレイス、ヨランド・モロー、パトリック・レプシンスキー、マルト・ジャルニアス

【あらすじ】少女がひとり、行き倒れて寒さで死んだ。誰に知られる事もなく共同墓地に葬られた少女モナ。彼女が誰であったのか、それは彼女が死ぬ前の数週間に彼女と出会った人々の証言を聞くほかなかった。また、証言でわかるものでもない。少女の名はモナ(サンドリーヌ・ボネール)、18歳。寝袋とテントを担いでヒッチハイクをしながらのあてどのない旅。時折、知り合った若者と宿を共にしたり、農場にしばらく棲みついたりすることはあったものの、所詮行きずりの人々にモナがその内面を垣間見せることは滅多になく、また何処ともなく消えてゆくのが習いだった。ある時、プラタナスの病気を研究している女性教授ランディエ(マーシャ・メリル)がモナのことを拾う。ぽつりぽつりと自らのことを語るモナ。ランディエも彼女に憐れみを覚えるが、結局どうすることもできず、食料を与えて置き去りにする。モナは森の中で浮浪者に犯された。またしても放浪の旅を続けるモナはついにはテムの街で浮浪者のロベールたちと知り合い、すっかり荒んだ様子になってしまった。そしてそこへ、前にモナと空き家の別荘で暮らしていたユダヤ人青年ダヴィッド(パトリック・レプシンスキ)がやってきて、マリファナの取引きのことでロベールといさかいになってモナの住んでいたアジトは火に包まれてしまう。すっかり薄汚れて再び路上に戻ったモナはパンを求めて近くの村に赴くが、今しもそこはブドウ酒の澱かけ祭のさなか。何も知らないモナは彼女に澱をかけようとする屈強の男たちに追われ、恐怖に顔をひきつらせ、そのまま力尽きて路傍に倒れ込む。

原題は「屋根も無く、法も無く」あるいは「ヴァガボンド」。美しく詩的な映像で始まる寒い冬の南仏の木々。アニエス・ヴァルダ監督のナレーションが聞こえる。その中で、少女モナは”海からやって来たのかもしれない”と。凍てつく寒さの中海で泳いでいる。この18歳の少女の死を映し出し、彼女に出会った人々の証言たち。彼等はモナが死んだ事を知らずに語ってゆく。初めて観た折の私は正直モナを好きになれなかった。ヴァルダの作品はそれでも美しく、また、モナの何かが私に記憶され続けていた、今も。年月を経て、今想う事はモナの反抗、自由、孤独の中に見る崇高さのようなものに憧れる。イデオロギーに反発するのでもなく、モナは失うものを持っていない。それは孤独と表裏一体。「孤独」や「自由」って何だろう...人は誰もが孤独ではないか。でも、モナの孤独は死を持って崇高さを獲得したようにも想う。私は「自由」というものを真剣に求めたことなどない。育った環境や教育、モナの年の頃はバブルな時代を過ごしていた。また、私は「失いたくないものがある」。それ故に、社会との鬩ぎ合いの中でバランスを保ちながらどうにかこうにか生きている。ちっぽけな私の愛する王国のために。人生は苛酷なものであるという前提にそれでも、空を見上げることを忘れたくはないと。蒼い幻想...。

アニエス・ヴァルダは激動の時代を体験して来たお方。60年代という。この映画の中でプラタナスは重要。アメリカからやって来た菌に侵されたプラタナスは後30年で朽ちてしまうという(ドアーズの音楽が使われている)。それを放っておいてはいけないと研究している独身の女性教授ランディエ。証言の中で、彼女はモナを置き去りにしたことを後悔し、助手にモナを探して連れ戻すように依頼している。けれど、終盤、助手はモナを駅の構内で見つけるけれど、ランディエ教授には見つけたと言わなかった。彼は当初から、モナの汚れた髪や衣服、悪臭を敬遠していた。教授は寛容で「もう慣れたわ」と語っていた。私もモナと知り合えたら慣れていただろうか...。毎日幾度も手を洗う癖のある私がモナの垢だらけの指を我慢できただろうか(これは、単なる私の病理的なことに過ぎないのだ)...。複雑な想いが巡る中、それでもこのモナは光の少女として映る。美しいとも想う、このアンビバレントな気持ち。きっと、私には持ち合わせていない「自由」を持つ少女が羨ましくもあるのかもしれない。

それにしても、ヴァルダというお方は強靭だ。純粋無垢な少女として敢えて描いてはいない。モナは行きずりの男性と共に過ごすし、少女の汚れた爪を映し出す。女性監督ならではの感性、と言っても様々なのだと幾人かの女性監督が浮かぶ。私は映画を娯楽として愉しみ、また、多くのことを学び思考を強いられ苦しくなることもある。この作品はそんな一つ。サンドリーヌ・ボネールは撮影当時このモナと同い年位の頃。素晴らしい女優さま!

モナは旅を選んだ。路上には、日常的な暴力があり、飢えと渇き、恐怖、そして寒さがある。彼女はそれを生き凌ぎ、何事が起ころうと、誰に出会おうとも意に介さない。私自身、彼女にひどくぞんざいにされた。が、それだけいっそう、彼女の孤独に胸をうたれる。(アニエス・ヴァルダ

このお言葉にあるラスト「私自身、彼女にひどくぞんざいにされた。が、それだけいっそう、彼女の孤独に胸をうたれる。」を読み、私は涙に溢れた。救われた気がした。上手く心を綴れないけれど。

関連:いつまでも大好き!★カトリーヌ・ランジェ:CATHERINE RINGER(レ・リタ・ミツコ:LES RITA MITSOUKO) : クララの森・少女愛惜

『少年の瞳』 カール・シュルツ監督 (1984年) 


少年の瞳/CAREFUL, HE MIGHT HEAR YOU
1984年・オーストラリア映画
監督:カール・シュルツ 原作:サムナー・ロック・エリオット 脚本:マイケル・ジェンキンス 撮影:ジョン・シール 出演:ニコラス・グレッドヒル、ウェンディ・ヒューズ、ロビン・ネヴィン、ジョン・ハーグリーヴス、ジェラルディン・ターナー、イザベル・アンダーソン、ピーター・ホイットフォード

苦手な夏。今年は冷夏で思ったよりも体調を崩さずに8月を乗り切れたのに...。9月に入り只今不調なり。そんな時はやはり何かを綴っている方が楽になる。死ぬまでの果てしない旅は私の人生。人生の大半は苦しいものなのだと言い聞かせる。まだまだ青二才の私には平穏に過ごせる境地には到底及ばない。修行は続くよ、何処までも。それでも愉しいのだ。馬鹿みたいに毎日毎日泣いている。不思議なもので、毎日毎日笑ってもいる。素晴らしき哉、人生である!

『少年の瞳』というオーストラリア映画。好きな映画のことをほんの一部しかまだ綴れていないので先は長い。この映画の主人公の少年はとびっきりの美少年というタイプではないけれど、やはり、あの足とお声は愛おしいもの。ビルという名があるのに皆から「PS」と呼ばれている6歳の少年。その小さな少年の視線で映し出される。なので、大人たちを見上げる背丈の少年と上半身がすべて映らない大人たちの場面などもあり愉快。私は前世余程愛に飢えた子供時代を過ごしたのでは...と思えるくらいに、「孤児」「私生児」「戦争による悲劇」というような少年少女たちのお話に敏感。観ずにはおられないという感じ。

この『少年の瞳』の舞台は1930年代のオーストラリア。元々は英国の植民地であった国。英国好きなので好きな俳優方は英国にわんさか。オーストラリアにも優れた俳優方が多く好きなお方も多いのは、そんな歴史が関係しているのかもしれない。あまり国籍や人種で区別はしないので色々観る中で感じていることだけれど。

この映画は日本では劇場未公開。オーストラリアでは各賞を総なめにした作品だそうだ。この少年役のニコラス・グレッドヒルの出演作はこの映画しか知らない。大人たちの会話を耳にし瞳をうるうるさせる愛らしい少年。最後までお話の真相が細かく分からないのは、すべてこの少年の視線で描かれているからだろう。ミーハー故に、私はこの映画のもう一人の主役とも言える美しい叔母ヴァネッサ役のウェンディ・ヒューズが好き。他の作品でも素敵だけれど、この1930年代という時代設定で裕福な役柄。纏われる美麗なお衣装や濃い目のメイクのそのお姿は麗しい。時折、大好きなナスターシャ・キンスキーホープ・サンドヴァルを足して、メグ・ティリーの雰囲気も重ねたような...。最後は英国に戻る船が事故に遭い死んでしまうけれど、PS少年の父親と若き日になにやら関係があったということらしい。なので、他の姉妹たちのPSを見つめる姿とは異なる。今も愛している人(姉の夫なのでややこしい)の姿を小さな少年の中に見ている。主役はPS少年なのだけれど、私はこのヴァネッサという貴婦人の人生にも興味を抱きながら観ていた。

PSというあだ名は変だけれど、皆そう呼んでいる。叔母が確か4人いた。お産の後死んでしまった母親シンディの遺言の中に書かれていた言葉が由来。この子供は「自分の人生のPS(追伸)のようなもの」だというような...PSが可哀相に思えた。優しい伯母ライラがPSの後見人となり6年を過ごしていた。決して裕福な時代ではないオーストラリアの1930年代。伯母夫婦は質素な生活の中で我が子のように温かく育てて来た。PSも実の両親のように慕っている。そんな矢先に英国からもう一人の叔母ヴァネッサがやって来る。PSを引き取りたいと。6歳の少年はライラ夫妻とヴァネッサの家を往来することになる。まったく違う過ごし方。ヴァネッサはお金持ちなので綺麗なお洋服をPSに与え、乗馬やピアノ、ダンスと色々習わせる。名門の学校に入れられるけれど、そこで「私生児」だとからかわれたりもする。PSはライラの元に帰りたい。けれど、養育費はヴァネッサの方が楽にある。ライラの夫ジョージが失業してしまったことは大きかった。当時のオーストラリアの不況を垣間見ることができる。PSの父親ローガンが突然現れてはまた汽車に乗って行ってしまう。金鉱を手にして戻ってくるというような夢を抱いて。父ローガンは妻のお葬式にも姿を現さなかったという。なので、PS少年はまったく父親を知らない。突如目の前に父親を見た少年の気持ちはどんなだったろう!きっと、よく分からない、言葉にもできない感覚だっただろうから、深く描かれてはいないので、勝手に想像して泣いてしまった。

PS少年が”ぼくはビルだ”という場面は特に感動的だった。実の母親の死を知り、父とも再会(また別れ)、叔母の死を経て、この小さな少年はまた少し成長したのだろう。辛いことが多いけれど、彼等(子どもたち)の前途は光に満ち溢れているものなのだから。そうであらねばならないと想い続けている。

http://brigitte.ocnk.net/product/570

『風と木の詩 sanctus −聖なるかな−』 安彦良和監督 原作:竹宮恵子 (1987年)

cinema-chouchou2009-09-16

ジルベールコクトー わが人生に咲き誇りし最大の花よ・・・ 遠き青春の夢の中 紅あかと燃えさかる紅蓮の炎よ・・・ きみは、わがこずえを鳴らす 風であった 風と木の詩がきこえるか 青春のざわめきが おお 思い出す者もあるだろう 自らの青春のありし日を・・・

寺山修司も絶賛された竹宮恵子作品というと欠かせない『風と木の詩』。私は連載時の途中からがリアルタイム。その頃の私は彼等の年齢より下だったけれど、不思議なくらいに違和感なく読み進めていた。後に、このアニメ化された映画をある友人と一緒に観たのだけれど、彼女は好きでも嫌いでもない...という感じだった。語った言葉が印象的で「ジルベールって女の子にしか思えない」と。面白い。女の子のような男の子でも逆でも私にはどうでもいい(魅力的ならば)。私は今も作品で描かれる世界を少女世界に置き換えて観ているのかもしれない、まったくの無意識の中で。男の子も女の子も同じく儚い刻を過ぎ行く。淡い想いを他者に抱くあの気持ちは誰にもあるだろう。私にもある。女の子であった。大好きな仲良しの同級生であった。高校が離れるまで...。理解されないお方も多いだろう。いくらここまでボーイズラブという世界が市民権を得た今も。何かが違う気がする。私は限られた作品しか知らない。少女マンガが大好きだったことは誇りにも想う。けれど、早くに映画や音楽へと比重は大きく傾いて行き今に至る。すべてが私の大切な思い出たちであり記憶である。そして、今もこの作品を思い出すことで考えることが色々ある。歳を重ねる中でどうでもいい薀蓄も積もる。そんな「どうでもいいこと」が大切でたまらない!マンガが文学より劣ると安易に語るお方やそのような先入観を自然と持たれているお方も多い。私には優劣などない。美しい絵が沢山頁を彩りお話が進む。その原作が映画になると美しい絵は動き、語る言葉や音楽も一緒。頁を捲り読み進めてゆく愉しみとはまた異なるもの。

このアニメ映画は僅か1時間程のもの。原作の最初の方のお話。セルジュの回想から始まる。そして、美しい音楽の調べは彼等の儚き刻を印象つける。幼き日のジルベールの微笑み。あの声。あの走る姿...もう戻り来ることのない時間。個人差はあれど、男の子も女の子にもある。今、立派な大人になっている人々にだって...。

※14歳のジルベールとセルジュ。私はあまりアニメに詳しくないので声優方のお名前も知らない。けれど、セルジュのお声があの「のび太君」だとはわかる。「白い王子」ことロスマリネも好きだったと懐かしく回想しながら、何故か物悲しい風が私をよぎるかのよう。聖なるものと邪なるもの。その狭間を想う。私の好きな世界はどうもその境界を漂うものが多いようだ。故に、考えることばかり、何故?と疑問ばかりで生きているのだとも想う。

風と木の詩 sanctus −聖なるかな
1987年・日本映画
監督:安彦良和 原作・監修:竹宮恵子 絵コンテ:安彦良和 作画監督神村幸子 美術監督:石川山子 撮影監督:高橋明彦 音楽:中村暢之 音響監督:千葉耕一 声の出演:佐々木優子ジルベールコクトー小原乃梨子(セルジュ・バトゥール)榊原良子(アリオーナ・ロスマリネ)塩沢兼人(オーギュスト・ボウ)竹村拓パスカル・ビケ)柏倉つとむカール・マイセ)

風と木の詩 (1) (中公文庫―コミック版) 風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)

『オリエント急行殺人事件』 シドニー・ルメット監督 (1974年)

オリエント急行殺人事件/MURDER ON THE ORIENT EXPRESS
      1974年・イギリス映画
監督:シドニー・ルメット 原作:アガサ・クリスティ 脚本:ポール・デーン 撮影:ジェフリー・アンスワース 音楽:リチャード・ロドニー・ベネット 出演:アルバート・フィニーイングリッド・バーグマンローレン・バコールジャクリーン・ビセットマイケル・ヨークアンソニー・パーキンスショーン・コネリーヴァネッサ・レッドグレーヴリチャード・ウィドマーク、ウェンディ・ヒラー、ジョン・ギールグッド、ジャン=ピエール・カッセル、レイチェル・ロバーツ、コリン・ブレイクリー

【あらすじ】1930年、ニューヨーク、ロングアイランドに住む大富豪アームストロング家の3歳になる一人娘が誘拐された。20万ドルという巨額の身代金が犯人に支払われたにもかかわらず、幼児は死体となって発見された。悲報のショックで夫人も亡くなり、アームストロング自身もピストル自殺を遂げてしまう。事件後6ヵ月目に犯人が逮捕されたが、莫大な金力とある種の秘密勢力を利用して証拠不十分で釈放されるという結果に終わった。それから5年後の1935年。イスタンブールからパリ経由カレーに向かうアジアとヨーロッパを結ぶ豪華な大陸横断国際列車オリエント急行には様々な国からの乗客が乗っていたが、その中には名探偵エルキュール・ポワロの姿もあった。2日目の深夜、折りからの雪で線路が埋まり列車が立往生している中、ポワロの隣の客室にいたアメリカ人富豪ラチェットが身体中を刃物で刺されて死んでいるのが発見される。鉄道会社からの依頼で事件の究明に乗り出したポワロは、一等寝台の車掌と12人の乗客たちの尋問を開始する…。

1974年(公開は1975年)の超豪華キャストによるアガサ・クリスティ原作の映画化。「オリエント急行」を映画の中で拝見でき、この英国俳優を中心に私の好きな方々が揃っていてそれだけでも堪能できるもの。アガサ・クリスティものというと機会があれば観るようになっている。最初はTV放映で観たのだけれど、まだアガサ・クリスティ女史という推理作家のことも知らない頃だった。『そして誰もいなくなった』か『ナイル殺人事件』、この『オリエント急行殺人事件』のどれもテレビが初見なので最初に観たものがどれだか記憶が曖昧でもある。ミス・マーブル・シリーズやおしどり探偵・シリーズも観ているけれど、このような豪華キャスト・シリーズの映画化はやはり華やかで味わいが違う。他の作品も追々に感想を綴る予定。今のところ、一等好きなのは『ナイル殺人事件』かもしれない。

この映画のことを思い出したのは、先述の2年半程前に綴ったものを纏めた『ピクニックatハンギング・ロック』からの連想ゲーム癖によるもの。あの寄宿学校の厳格な学園長を見事なまでに演じておられたレイチェル・ロバーツが忘れがたい。撮影はこちらが先だけれど、公開は同じ年の1975年。レイチェル・ロバーツはこの『オリエント急行殺人事件』の中でロシア貴族に仕えるドイツ人の召使であり、同性愛者という役柄でもある。英国の優れた女優様であったのに1980年に自殺された、その理由は知らないけれど残念である。ミステリーがミステリーを呼び、現実と虚構の狭間で揺れ動く私の頭の中では何故か、こうしてインプットされてしまっている。また、この映画でベルギー人の名探偵エルキュール・ポワロを演じるのはこれまた名優アルバート・フィニであり、レイチェル・ロバーツとは共にお若い頃『土曜の夜と日曜の朝』(アラン・シリトー原作)で共演されていた。こうした名優が揃うと次々と連なるので愉快!

この『オリエント急行殺人事件』で、イングリッド・バーグマンが3度目のオスカーを獲得されている(2度は主演女優賞で今作では助演女優賞を)。そのスピーチも大女優なのに謙虚な素敵なお姿であった(リアルタイムではなく『アカデミー賞特集』の番組にて)。私の友人に熱狂的なミステリー・ファンがいる。その点、私ときたらお気楽な映画好きなので、あまり緻密な分析など出来ないけれど、アガサ・クリスティ御本人がまだ存命中に作られたこの映画は、1930年代という時代を華麗に表現していると思う。お美しい女優陣のお衣装やアクセサリーも見どころ。最後はジーンと切ないものを残し美しい。ジャンルなど関係なく、何か物悲しさを湛えた作風は大好きなのだと想う。

オリエント急行殺人事件 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD] オリエント急行殺人事件 (ポプラポケット文庫) オリエント急行殺人事件 [英語版ルビ訳付] 講談社ルビー・ブックス

『ピクニックatハンギング・ロック(ピクニック・アット・ハンギング・ロック)』 ピーター・ウィアー監督 (1975年)

cinema-chouchou2009-08-26


『ピクニックatハンギング・ロック』のこれまでの纏め

ピクニックatハンギング・ロック/PICNIC AT HANGING ROCK
1975年 オーストラリア映画
監督:ピーター・ウィアー
(ピーター・ウェアー)
製作:ハル・マッケルロイ、ジム・マッケルロイ、A・ジョン・グレイヴス
原作:ジェーン・リンジー
脚本:クリフ・グリーン
撮影:ラッセル・ボイド
音楽:ブルース・スミートン
出演:レイチェル・ロバーツ、アン・ランバート、ヘレン・モース、マーガレット・ネルスン、ドミニク・ガード、ヴィヴィアン・グレイ、カレン・ロブスン

大好きすぎて何から書けばよいか分からない。生涯共にしたい映画とも言える。冒頭からラストまで、私の好きな少女たちの芳香に満ち溢れている。少女趣味という言葉をあまり好まない方も居られる。私は少女趣味だと馬鹿にされても平気だった。”だって、好きなんだもん...”と心の中では寂しい思いを隠し言ってきた。そんな頑固さは大事にして良かったと、今では共有できるお友達も居てくださる。さて、このお話は1900年2月14日(聖ヴァレンタインの日)にオーストラリアの厳格な寄宿制女子校生徒の謎の失踪事件の実話を元に書かれた小説を、ピーター・ウェアー監督が見事に映画化したもの。オーストラリア映画だけれど、かなり英国的。それもヴィクトリア女王の時代。大好きな時代背景、白いレースの制服、校舎内の装飾や小物たち、美しく気品のあるマドモワゼル(先生)、厳格な校長先生、美しい自然、シェイクスピアソネット、光と影...完璧!この映画のお話でいったいどんなに書き続けられるだろうというくらい。

この映画の主役は誰かな?最初観た時はとびっきりの美少女ミランダにドキドキした。でも、彼女と同室のセーラに何かしら感情移入している私が居た。それから何回観てるだろう...そんな内にこの映画のもつ強烈な神秘性は正にミステリアス。英国の名女優のお一人であるレイチェル・ロバーツのあの存在感!当然の演技力なのだけれどかなり怖い。このお方の存在が共にあるのだと。この怖い校長先生は生徒が消えた謎の岩の麓で1900年3月27日遺体で発見。この後もいくつかの作品に出演されていたけれど、1980年にレイチェル・ロバーツは自殺しているのだ。こじ付けた妄想かもしれないけれど、あの迫真の演技、あの怖さに震えるようなものを感じてならない。ミセス・アップルヤードそのものになりきっていたかのよう。

午後12時で時計がピタリと静止する。この時の狭間、少女の儚さ、美しさを映像は繊細に伝えてくれる。消えてしまった少女と自らの命を絶った少女。ミランダもセーラも永遠の少女のまま。残った多くの生徒たちはその時を駆け抜けそれぞれ大人への階段を登っていくのだろう。セーラは内気で詩の好きな可愛い少女。光輝くブロンドの美少女ミランダに寄せるほのかな淡い想い。少女同士の秘め事のような囁きや笑顔。

私は彼女たちの年の頃、時が止まればいい!と思っていた。でも、今も生きている。年を重ねる喜びもようやく感じているのだけれど、どうしてもあの時が忘れられない。多くのものが凝縮されて結晶のように存在しているよう。この様な女の子同士の限られた時の心模様、世界感を男の子同士で描いた少女マンガの世界。そんな世界を先に読み幻想と現実にうろたえながらもどうにか愉しく生きてきた。これは私個人の想い。世代感というものもあるのかもしれない。ある意味、幼い頃からの免疫だとも思える。悦ばしい出会いたちに感謝している★

2007.1.11.

この映画はとても大好きで、美しいお衣装や寄宿舎の少女たち、そして不思議な美しさに満ちている。なので、ぼんやり見とれている時期を過ぎ、今は色んな想いが巡るものとなっている。大まかな感想は『映画の宝石箱』に綴ってみたのだけれど、こちらでも追記しておこうと思う。色んな映画評論家の方の意見を拝見したりしてきた中で、とても興味深く、かつ的を得た、流石!と狙い撃ちされた私はよろめくのだった、このお方のお言葉だということで♥

「思わせぶりな映画ね。画面から台詞から音楽まで、ともかく全部が徹底して思わせぶり・・・。(中略)この映画は、少女漫画的と言えば、言えますね。少女漫画と言っても、もちろんいろいろですが、萩尾望都さんの少女期の感性のゆらめきの世界、山岸涼子さんのミステリアスな世界に近いような印象を受けました。私の場合は、むしろストーリーを積み上げて築いていくことを追求しますから、ちょっと違う世界なのですが、それだけに新鮮で、その不思議な感触を楽しませていただきました。」 by 青池保子さまのお言葉より♪

2007.1.17.

関連:ピクニックatハンギング・ロック(ピクニック・アット・ハンギング・ロック) ピーター・ウィアー監督 : クララの森・少女愛惜

ピクニック at ハンギング・ロック ディレクターズ・カット版 [DVD]