『エマ EMMA』 セーアン・クラーグ・ヤーコプセン監督 (1988年)

cinema-chouchou2008-08-21


エマ/SKYGGEN AF EMMA
1988年・デンマーク映画
監督:セーアン・クラーグ・ヤーコプセン 脚本:セーアン・クラーグ・ヤーコプセン、イェアン・O・イェンセン、撮影:ダン・ローステン 音楽:トーマス・リンダール 出演:リーネ・クルーセ、ボリエ・アールステット、エゲ・ソフィーエ・スコウボー、ヘンリク・ラーセン

セーアン・クラーグ・ヤーコプセン監督による1988年のデンマーク映画『エマ』(英国映画のグウィネス・パルトロウ主演の『エマ』も好きなのでまた!)の原題は『エマの影』であるのでただ可愛いエマを讃えるだけの少女映画ではないと想う。初めて観た時は私も若かったもので、エマ(リーネ・クルーセ)の並大抵ではないお嬢様ぶり、大きなおリボンやハイソックスにお靴。綺麗なお洋服、高慢ながら利発な少女の行動をじっと観ていたように想う。しかし、今ではそんなブルジョワのお嬢様の心の空虚さ、そして、対比的な存在であるメルテ(ボリエ・アールステット)や安くて美味しい町一番の食堂”ヌーゼン”の子供たちや人々の姿から感じるところも強い。お金や物質的なものは満ち足りているけれど、両親の愛はヌーゼンの子供たちの両親の方が貧しくとも大きい。

舞台は1930年代のデンマーク。大西洋横断無着陸飛行の英雄チャールズ・リンドバーグの息子さんが誘拐されたという頃。その大ニュースはデンマークの新聞のトップ記事でも伝えられていた。お仕事ばかりの父親、美容ばかりの母親(当時のアール・デコな美麗なお洋服や小物たちを身に纏っている)。娘エマの言葉にどちらも耳を傾けてはくれない。学校の送り迎えの高級車に運転手(首にされるのだけれどハンサムで素敵!)、数人の使用人たちに家事からエマの面倒まですべて任せている。両親の仲もあまり良さそうではない...。一人っ子のエマはわざとお洋服を汚して帰り踏んづけてはあっかんべえ〜とするわがままさ。呆れた(慣れた)使用人たちは怒ることもなく片付ける。町で真っ黒な小さな子猫を買うエマ。しかし、それもまた動物嫌いの母親に捨てるように言われ、その子猫はヌーゼンの兄弟たちの元へ。寂しいエマだから猫を買ったのだ。お友達らしい人もいないようだし。そこで、先のリンドバーグの記事を見て、”もしも、私がいなくなったなら...?”と考えるのだった。きっと、両親は心配してもっと構ってくれるだろうと。そこから、少女エマの大冒険が始まる!

ゆったりと人々の姿や言葉を観たり聞いたりしながら、心の温かさはお金とは関係ない処にあると伝える。押しつけがましくもなく。メルテ役のボリエ・アールステットがとても人間味のある心の豊かな優しい男性を好演している。こんな人好きだな。彼は実はスウェーデンから職を求めてやってきた異国の人。よそ者扱いで安い賃金での下水道でのお仕事、薄暗く狭い部屋で面倒をみてもらっている女性もいるメルテ。家出をしたエマは一泊だけ(のつもりだったけれど、様子を窺いにお家に帰ると使用人たちの陰口を耳にして心を痛めてまたメルテの元へ)彼の部屋で過ごす。自分のことはロシア人のロシアンコ王女だと嘘をついて。両親はお話を何も聞いてはくれないけれど、メルテは突然現れた12歳の少女の言葉を静かに聞き受けとめる。寛容な人物なのだ。次第にエマの高慢さから彼女の心の孤独さ、その悲しみの中出逢えたメルテとの交流の中でエマの心の優しさが感じられるようになる。偽装誘拐事件を企み、メルテに綺麗なスーツと豪華なホテルでのお食事をプレゼントする。壊れたままのオルガンを修理してエマに弾いてあげる。壊れたオルガンはメルテの壊れた心のように生き返った。これはロリータ映画ではない!12歳の裕福な少女と貧しいが心優しき中年男性との友情、心の通いの物語。まんまと少女の嘘に乗せられ逮捕されてしまうが、”娘に手を触れるな!”と警官に語り彼女を最後まで守る。少女の嘘からの身代金事件だと分かっても、両親の反応も相変わらず大きくも無さそうでエマが可哀想に想う。釈放されエマと再会し抱き上げるシーンで終わる。

その前に好きな場面なのだけれど、エマが”シラミがいる?”と聞くと、メルテは静かに”うん”と答える。そして、エマが彼のその頭に自分の頭をくっつけるシーン。メルテのことを、以前のエマなら汚らしいおじさんだと触れるのも嫌がっただろう。しかし、今は唯一の友人であり理解者を得たかのようにこのシーンは証すように感じた。心温かく少女の孤独な心を埋めてゆく...。好きな映画!監督は子供たちのテレビドラマなどを撮っていた経歴もあるそうだ。デンマーク映画というと『ペレ』という大好きな映画があるのを想い出す☆