『クリスチーネ・F』 ウルリッヒ・エデル監督 原作:クリスチアーネ・ヴェラ・フェルシェリノヴの手記『かなしみのクリスチアーネ』 (1981年)

cinema-chouchou2009-08-25

『クリスチーネ・F』のこれまでの纏め

クリスチーネ・F/CHRISTIANE F.  
1981年・西ドイツ映画
監督:ウルリッヒ・エデル 原作:カイ・ヘルマン、ホルスト・リーク 脚本:ヘルマン・バイゲル 音楽:デヴィッド・ボウイ、ユルゲン・クニーパー 出演:ナーチャ・ブルンクホルスト、トーマス・ハルシュタイン、イェンス・クーパル、クリスチーヌ・ライヒェルト、クリスチーヌ・レハル、デヴィッド・ボウイ

<ボウイを見つめる美少女クリスチーネ(ナーチャ・ブルンクホルスト) 映画『クリスチーネ・F』より再び>

以前綴った映画『クリスチーネ・F』の劇中でのボウイのライヴ映像を再び観ていて涙が止まらないのだった。「ボウイ館」でそのことは触れてはいない。今も目が痛くてたまらないけれど、綴っておかなければ...と想うままに。この映画の中のクリスチーネ(ナーチャ・ブルンクホルスト)は美少女。その少女が(友人たち少年少女も)転落の道を辿る。この画像は、その大好きなボウイのコンサートの舞台を見つめるクリスチーネ。周りの笑顔のファンとは違う。この眼差しに私は胸が締めつけられる程に感情移入できる。クリスチーネにとってデヴィッド・ボウイとは神に等しいのだ。プラットホームでボウイのコンサートを知る時、クリスチーネは劇中唯一の笑顔を見せる。あの瞬間、あの場面が大好き。また、このボウイのライヴを見つめ微かな笑みのようなものも感じられるけれど、夢か幻か、その場の自分さえ分からない。得たことの無い感情を初めて覚えた時の戸惑いは誰もが体験しているだろう。私はボウイを最前列で拝見したことはないけれど、このクリスチーネの心の拠り所である存在がボウイなのだと共感できる。13歳の美しい少女。私は少女映画(少年も)が好きなので色々なテーマのものを観るけれど、この映画は異色中の異色。おせっかいな説明(教訓)など一切無い。すべて少年少女たちの行動を映す。悲しいのは、大好きなボウイのレコードをお金に換えてまでヘロインという魔に引き寄せられてしまう...。少女たちに笑みを与えることができるのは日常を共に過ごす大人たちではない。ボウイだから感情移入できるのかもしれないけれど、この思春期の心の揺れ、葛藤、不安、孤独感をどのように通過してゆくのかは人それぞれ。立派な大人になれる人もいれば、まだこんな具合の私のような者もいる。少女から大人への通過儀礼に失敗したのだろうか。よく分からないので、こうして想いを綴る。いつになれば解放されるのだろうか。死に至るまでの覚悟が必要なのかもしれない。

2009.4.25.

<『クリスチーネ・F (われら動物園駅の子供たち)』のナーチャ・ブルンクホルスト:NATJA BRUNCKHORST>

『クリスチーネ・F』は、クリスチアーネ・ヴェラ・フェルシェリノヴの手記『かなしみのクリスチアーネ』、あるいは『われらツォー駅の子供たち(われら動物園駅の子供たち)』を原作とした映画化。何から書き出せばよいだろう...という程、この作品から多岐に渡る想いがある。やはり、この映画を知るきっかけとなったのは、私の何処までもいつまでもヒーローであり続けているデヴィッド・ボウイ様のサントラから。ボウイはこの原作が出版された1977年はベルリンに住んでいた(かの「ベルリン三部作」の名作を作り出した時代)。実在するクリスチーネ.F.は1962年5月20日、北ドイツ生まれ。そして、この1981年の映画の中でクリスチーネに扮するナーチャ・ブルンクホルストは、1966年9月26日、ドイツ・ベルリン生まれ。日本公開は1982年。私は正しく思春期でボウイが出演していなければ観ただろうか...と想ったもの。かなりの衝撃を受けた!そして、陰惨たる想いの中、原作も買って一気に読み終えたものだ。この映画に主演している少年少女たちは初出演の素人の可愛い人たち。また、驚くべきことに、実在のクリスチーネもとても美少女だった!そして、12インチ・シングルをリリースしたりもしていた(そのバックにはアインシュテュルツェンデ・ノイバウテン(Einsturzende Neubauten)に僅か15.6歳の頃にメンバーとなっていたアレキサンダー・ハッケ(Alexander von Borsig)ことボルジヒもおり、当時のボーイフレンドだった)。ハッケはSprung aus den Wolkenにも在籍していた早熟の天才。こんな具合に繋がってゆくので面白い。

13歳の少女の青春映画というにはあまりにも冷徹に監督は描き出す。クリスチーネの現実に向き合うことは死の直前であるという凄まじいもので、監督の姿勢には一切甘えのようなものは感じられない。故に、”ツォー駅の子供達”の心象風景がドキュメンタリーのようにヒリヒリと伝わるように想う。ウルリッヒ・エデル監督作品はこの映画が日本初公開で、その他『ブルックリン最終出口』や『ラスプーチン』など幾つか観ている。また、音楽の担当はボウイの9曲の楽曲の他、ユルゲン・クニーパーが参加している。ヴィム・ヴェンダース作品などでも有名なお方。こんな風に今の私にも大きな影響を与え続けるデヴィッド・ボウイという存在は、いったい何だろう!と不思議で仕方がない。お話が行ったり来たりするけれど、このクリスチーネの友人だったバブシーという少女の死が報道される。この実在のバブシーがまたとても美少女だったので、この早すぎる死(犠牲)が痛く感じられた。クリスチーネはデートレフ(この少年も可愛い)に恋をしている。このボーイフレンドが先に薬物に手を染める。そのお金を調達するために、彼は男娼となっていた...そして、この13~14歳の少年少女たちの生活は薬物依存に突き進んでゆく。これらのお話が全て実話であるということ。そして、実在のクリスチーネがその死を目前にその世界から脱却できたこと、其処に至るまでの心の空虚さや心理状態などを私なりに想う...良かった!死なずに。ボウイは映画の中でも”David Bowie”として出演していて、ベルリン・ツアーの中で『ステーション・トゥ・ステーション』を歌うボウイ(とても素敵♪)を、夢見心地に見上げるクリスチーネの表情が忘れられない。地下鉄のポスターで大好きなデヴィッド・ボウイのコンサートを知る。その時の微笑んだ愛らしい表情!その気持ちは私にもあまりにも伝わるものだったから。

地下鉄のプラットホームに一人残されたクリスチーネの目の前で、公演をしらせるデビッド・ボウイーの大ポスターが貼られる。それを目にした時の彼女の微笑。それは何といったらいいのだろう。実に ― それこそ神に対面した時の笑顔で ― 見事な微笑をうかべ、これが映画を通じて唯一の微笑である。

作詞家の阿久悠氏がパンフレットに寄せたものの中でこのように記されている。さらに、この映画に詩を感じるとも。なので、ポエメンタリーだと興味深いお言葉が記されていた。

家にいる時の私には、デビッド・ボウイーのメロディだけが安らぎだった。彼の曲を聴いているとき、私は”普通の女の子”に戻れた。

このように語るクリスチーネはヘロインに手を出し、転落の道を辿る。その姿をウルリッヒ・エデル監督は淡々と描く。これもまた、感じ方は世代感というもので様々だろうと想う。私は幸いにも薬物に縁のない、バブリーな世代を思春期として過ごしてきた日本人。だからと言って、”私には関係ないわ、こんな荒んだ世界の汚い少女たち”とは想わない!私自身とは違う環境の人々の生活や心をこうして感じることができる。クリスチーネの心の闇や苦悩は分からないかもしれないけれど、想像したり思考したりすることは出来る。もっと、彼女に共感できる少年少女(だった人々も含めて)は、きっと想像以上に沢山世界中にいて今を生きているようにも想う。

2007.12.23.

<映画『クリスチーネ・F』とサウンドトラック>

1981年の西ドイツ映画『クリスチーネ・F』にボウイは本人役として出演し、劇中『Station To Station』を歌うライヴ・シーンで登場。とっても、カッコイイ!!(いつもながら♪)この映画のために、ボウイ自ら写真など資料を提供している。実在のクリスチーネ・F(当時は未成年だったので)こと、クリスチアーネ・ヴェラ・フェルシェリノヴの手記『かなしみのクリスチアーネ』、あるいは『われらツォー駅の子供たち(われら動物園駅の子供たち)』を、ウルリッヒ・エデル監督が映画化したもので日本公開は1982年。映画の中でクリスチーネに扮する少女ナーチャ・ブルンクホルストのことなどを『クララの森・少女愛惜』にて思いつくままに綴ってみた。『ボウイ館』ではそのサントラ盤の内容を記しておこうと想う。※映画の音楽担当は、ボウイの9曲の楽曲とユルゲン・クニーパによるもの。

2007.12.24.

関連:ボウイを見つめる美少女クリスチーネ(ナーチャ・ブルンクホルスト) 映画『クリスチーネ・F』より再び♪ : クララの森・少女愛惜

クリスチーネ・F [DVD] クリスチーネ F ― オリジナル・サウンドトラック かなしみのクリスチアーネ―ある非行少女の告白 (1981年)